COMMENTARY

なけなしの命を捧げたフレディとゲバラ

"映画『エルネスト』の時代と背景"

伊高浩昭(ジャーナリスト)

★ゲバラが学んだこと

アルゼンチン内陸部に生まれたゲバラは2歳で小児喘息に罹る。生涯苦しめられることになる「内なる敵」喘息と闘い、かつ、さまざまな病気に苦しむ人々を救うため医師になろうと決意する。国立ブエノスアイレス大学医学部生だった1952年、南米を旅行し、先住民、農民、鉱山労働者ら無数の人々が極貧の底で苦悩する厳しい現実を至る所で目の当たりにし、富裕層の白人ゲバラは驚愕する。

南米大陸の底辺に息づく人々からゲバラが学んだのは、「連帯とは余分な物を他者に恵むことではなく、なけなしの物を他者と分かち合うこと」という真理だった。翌53年に大学を卒業し医師免許を取得すると、時の全体主義的なペロン政権の保健政策に徴用されるのを嫌い、地元南米大陸の多様性と矛盾を一層深く把握し人生目標を定めるため、再び南米旅行に出る。

★「正面の敵」は米国

まず訪れた北の隣国ボリビアは、1952年4月に鉱山労働者革命を経験していた。25歳の青年医師の脳裡に「革命」の言葉と状況が刻印される。53年7月26日、キューバでは若き弁護士フィデル、実弟ラウール(現国家評議会議長)のカストロ兄弟らが、独裁軍政を倒す革命の狼煙を上げようと陸軍モンカーダ兵営を襲撃し失敗する。当時ボリビアにいたゲバラは、まさか2年後フィデルに会うことになろうとは夢想だにしなかった。また当時11歳だったフレディらと共に13年後、新しい革命の戦いを起こすためボリビアに戻ってこようとは神さえも予測できなかっただろう。

南米から中米に渡り北上してアルベンス革新政権のグアテマラに辿り着いたゲバラは54年6月、米国の国策会社ユナイテッド・フルーツ社(UFC)の権益を守るアイゼンハワー米政権が仕組み編成した侵攻部隊によりアルベンス政権が倒された惨劇の場に居合わせる。流血の巷でゲバラは、米国とUFCなど巨大米資本を「正面の敵・帝国主義」と捉える。

★両雄の歴史的出会い

身の危険を悟りメキシコに逃れたゲバラは1955年7月、モンカーダ兵営襲撃後、服役し恩赦で釈放され亡命してきたフィデルにメキシコ市で会う。フィデルの革命構想に共鳴したゲバラは、ゲリラ部隊の従軍医師になるのを決意する。この時、ゲバラはフィデルに「キューバ革命が成功したら、祖国アルゼンチン解放の戦いを始める」と伝え、フィデルも了承した。カストロ兄弟、ゲバラら82人の志士は56年12月クルーザー「グランマ号」でキューバ島東部に上陸、独裁打倒と民族主義革命を目標にゲリラ戦を開始する。

初戦で弾幕に晒されたゲバラは窮地を脱する際、医療箱か弾薬箱か、どちらかを捨てなければならなかった。「私は銃と弾薬箱を手に走った。この時、医師から革命家に変身した」と後年、述懐する。革命戦争は25ヶ月間続き、フィデルの部隊は59年元日に勝利する。これが「キューバ革命」である。ゲバラも覇者となり、国際的な革命家として押しも押されもしない存在となった。

★キューバと米国の対決

フィデルは農地改革、米資本国有化、ラ米革命運動支援、共産圏諸国との国交樹立など変革政策に邁進、キューバは東西冷戦の米州の飛び地となった。怒ったアイゼンハワー大統領は1961年初め国交を断絶、革命政権打倒を後継のケネディ大統領に託す。ケネディは亡命キューバ人部隊を同年4月キューバに侵攻させる。だが革命軍(キューバ国軍)と民兵隊は3日間で侵攻部隊を撃破した。米国は54年のグアテマラ政権打倒時の戦略を踏襲し失敗したのだが、同じグアテマラの政変を逆の立場で経験したゲバラは早くからフィデルに進言、防衛態勢を固めていた。これにより侵攻部隊を短期間で撃破できたのだ。

侵攻作戦に失敗し面子を潰されたケネディは、米軍による直接侵攻の準備に入る。これをソ連のフルシチョフ政権が探知、フィデルに絶対的防衛策として中距離戦略核ミサイルのキューバ島配備を持ち掛ける。その結果起きたのが、世界を核戦争の瀬戸際まで追い込んだ62年10月の「キューバ(核ミサイル)危機」だった。

★フレディの来歴

ボリビア北部ベニ州都トゥリニダーに、鹿児島県頴娃(えい)町出身の日本人移民、前村純吉とボリビア人女性ロサ・ウルタードの二男として生まれたフレディは、父親譲りの律儀で厳格な性格と、貧者を憐れみ社会的公正を重んじる青年に育ち、ボリビア共産党青年部に所属していた。当時のボリビアは、1952年の鉱山労働者革命を組織した政党「革命的民族主義者運動」(MNR)の指導者ながら反共主義で保守的なビクトル・パス大統領の時代だった。

前村一家は家長の純吉が病死したため政治首都ラパスに引っ越し、医師を志していたフレディは大学医学部入学を目指す。だが共産党青年部に属していたことや妬みから妨害され、門戸は閉ざれた。そんな時、フレディに希望の扉を開いたのが、革命後3年しか経っていなかった社会主義国家キューバである。フレディはハバナ大学医学部の奨学生となり、1962年4月ハバナに到着する。

その年10月、ミサイル危機が勃発したのだ。フレディはフィデルの呼び掛けに応じ、防空部隊の志願兵になる。世界史の尖端に身を置いた得難い経験は、フレディを国際連帯主義に一層目覚めさせた。危機は米ソの取引で収拾するが、頭越しの決着に激怒したフィデルはラ米やアフリカでの革命運動支援に力を入れた。その国際革命運動の先鋒を担ったゲバラは、フレディにとっては、荒海を照らす灯台のような存在だった。

★ラテン人の性格

革命政権で外交特使、工業局長、中央銀行総裁、工業相を歴任したゲバラは、特使として1959年7月に来日、広島を訪れている。だがゲバラはミサイル危機収束直後、「ミサイルは撤去されなかったら、防衛のためニューヨークをはじめ米国の心臓部に全部発射されていたはずだ」と発言する。広島で体得した反核思想よりも、米帝国主義への敵対思想の方が強かったのかもしれない。ラ米人を含むスペイン語国民の典型的性格とされる「直情型」がフィデルにもゲバラにもあった。そしてフレディも無縁ではなかったはずだ。

ゲバラはゲリラ戦士にふさわしい年齢を「30代半ばまで」と見ていた。その年齢に達していたゲバラは、フィデルやソ連との確執もあって、キューバを離れることを決意する。

★コンゴからボリビアへ

ボリビアでは1964年11月、レネ・バリエントス空将がクーデターでパス政権を倒し、軍事独裁を敷いていた。ゲバラがボリビアで倒すべき標的はバリエントス軍政だった。65年4月、ゲバラはまずアフリカ・コンゴの内戦にゲリラ部隊を率いて参戦するが、半年で撤退を余儀なくされた。

そのころキューバでは、ボリビア遠征部隊が組織されていた。コンゴでの敗北などで失意のゲバラは66年密かに帰国、フレディら選ばれた戦士を訓練する。フレディは同年10月ボリビアに潜入、ゲバラも11月合流した。フレディはゲバラの本名「エルネスト」と「メディコ」(医師)を戦士名としてもらい受けた。ゲバラは同業の医師フレディに親しみを抱いていたようだ。

★ボリビアでの最期

ゲバラを指導者とし国籍が5ヶ国にまたがる約50人のゲリラ部隊「ボリビア民族解放軍」(ELN−B)は1967年3月、ボリビア軍相手に戦闘を開始する。ゲバラは翌4月、前衛隊および本隊を率いて行軍、フレディらの後衛隊を後に残した。この時からゲバラの部隊と後衛隊は離れ離れになり、再会できないまま制圧されてしまう。時のジョンソン米政権は「ラ米で第2のキューバは許さない」という鉄則「ジョンソン教義」を打ち出し、ボリビア軍を指導してゲリラ部隊を葬り去ったのだ。

ゲリラ部隊はわずか数人の生存者を残し、アンデス山地に散った。25歳のフレディは8月31日、39歳のゲバラは10月9日、それぞれ処刑された。2人の正義派はボリビア・南米・ラ米への革命的連帯に「なけなしの命」を捧げたのだった。今年は両雄の歿後半世紀の記念すべき年である。

『エルネスト』の物語は、キューバ人フィデル・カストロ(1926〜2016)、アルゼンチン人エルネスト・チェ・ゲバラ(1928〜67)、日系ボリビア人フレディ前村(1941〜67)という3人の革命家の宿命的な出会いから生まれた。ラテンアメリカ(ラ米)3国3人の歴史的な結びつきは、「ラ米人はラ米全体に帰属する」という「大きな祖国」建設の理想を実現するためのラ米連帯・統合思想を象徴する。物語の時代は、現代で最も進歩的だったとされる20世紀第3・4半期(1950〜75)の中心をなす1960年代である。

エルネスト